力などございません。
- 加藤掌心
- 2019年9月10日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年6月5日
スタヂオアンジム 店主の加藤です。 いきなりのタイトルですみません。 ちょっと誤解を生んでしまうでしょうか。 このブログは、社用ブログのように受け止められるかも知れませんが、 発言の是非を鑑みず、忌憚なくあくまで「私の主観」として書いて参ります。
もうかれこれ、書家として活動を始めて十数年が経とうとしております。
おかげさまで、ご注文を受けてお納めさせていただく頻度も、
年を追うごとに多くなったり、少なくなったり。
量の問題ではなく、存在の問題であると考える私は、
もちろん困ったこともあるけれど、
その改善、、、いやちょっと違うんだけれども、
そのような困り事の克服のためにより一層の学習と実践を果たしてゆくこともまた、
作家としての試練ではないかと思うところでございます。
弊社の商品の立ち位置はそのようになっております。
芸術で身を立てようとする時、
通過点として起業家としての側面を持ち、土台を作ろうと考えるものです。
それほどに、そうでもしなくては、
文化とは、食っていけるような営みではないのかもしれません。
極論を言うと、暴論にもなりえますが、
食って行けないという恐怖に立ち向かえないのであれば、
作家なんて諦めた方が良いのです。
ただし、これは、私に限った考え方です。
作品について、私は自賛することが生理的にできません。
自信がないの?と言われればそうだし、
そんな人の作品はいらないと言われれば、仕方のないことだと思います。
その証拠に、私は「書」の営業が大嫌いです。
だからいたしません。
作品と商品は大きく話が違うのでございます。
受け入れられないのが嫌なのではなく、
そもそも作品の自信とは、人に伝えるべきこと、
また伝え切れることなのでありましょうか。
私の考えは違います。
自信とは、冒険と挑戦によって得るものだという考え方ですから、 これは内在するものであり、ひけらかすものではない。 では、なぜこの作品が素晴らしいと判断されるのか。 それは、言葉にせずとも何かを作品が語り、生き様を含有しているからだと考えています。 作品が売れたということに、深く感謝の意を持つことはあっても、 数を自信にすることはございません。 ましてや、人を動かしているなど。 私の書にはそんな力など、ないのです。 動くことをなさるのは、決めるのは観る方であり、 作家や作品が求めることではございません。 けれども、買ってただいた方のことは、生涯忘れることはないし、 ずっと幸せを想い願い祷り続けることでしょう。 もう一つ、もっとも重要なことですが、 素晴らしさとは、いつも観る人が携えているものです。 私は作家として何をこれまでやってきたのかと自問すると、 認められる作品よりも、掘り起こせる作品を生み続けること。 「私には、僕には、 こんなにも物事を美しいと捉えることのできる心の豊かさがあったのだ。」 と、お客様に発見していただくことです。 よって、観る方にとっての駄作はどこまでも駄作です。 秀作は、観る方にとって、どこまでも秀作です。 素晴らしいのは、作品ではなく、受け取る側の心の佇まいなのだと、 私は考えておりますし、覚悟もしております。 これは、私を支えてくださった多くの友人たちから教わった大切なことでもあります。 10年前に聴いた曲をその時なんとも思わなかったのに、 今聴いたらなんだかすごく響いた。 そのように、今響かなくても、いつか誰かに響くかもしれない。 だから、一作にそれまでどころか、未来の全てまでをもつぎ込むのですね。 時間や人生というものが、そこには大きく関わってくるのかもしれません。 写真や、絵画、書、彫刻などは、予告なく丸裸で評価を受けます。 音楽、映画、舞台などは、予告することができ、だからこそ、 前振り以上の本編の充実が是非を極端に分けることもあり、 それは時に現代の、社会情報の便利さにおいては、とても残酷なことでもあります。 それでも私は、自分以上に観る方の心をどこまでも信じています。 期待と信頼が別物であるように、信用と信頼もまた、別物であるように。 人の心にそれぞれ平等に宿る「美」に、 向き合い、問いかけ続けて行けることが、きっと私にとっての幸せであり、 その手段が、制作であると考えています。 お読みいただき、誠にありがとうございます。拝

書道を嗜んでいますが、札幌で探したのは初めて・・何か、惹かれる作品ですね。